【障がい者スポーツ協会だより63号】ミラノ・コルティナ2026パラリンピック長野県関係選手コメント

2026年3月6日~3月15日に「ミラノ・コルティナ2026パラリンピック」が開催されました。長野県から、アイスホッケー競技に4名、アルペンスキー競技に1名、車いすカーリング競技に1名、スノーボード競技に1名の選手が出場されました。長野県関係選手よりコメントをいただきました。

★協会だよりには掲載しきれなかった小池岳太選手のコメントも掲載していますので、ぜひ最後までお読みください!


坂下 恵里 選手(スノーボード)

[Photo/Kohei Maruyama]

パラスノーボード 女子スノーボードクロス(SB-LL2) 8位入賞
パラスノーボード 女子バンクドスラローム(SB-LL2) 7位入賞

この度、パラリンピックに初出場し、大変貴重な経験を得ることができました。支えてくださった関係者の皆様に、心より感謝申し上げます。
両種目ともに入賞できたことは嬉しく思います。練習の成果を発揮できた部分もありましたが、レース内容としては多くの課題も見つかりました。明確になった課題としっかり向き合い、今後も精進してまいります。

[Photo/Kohei Maruyama]

吉川 守 選手(パラアイスホッケー)

2026イタリアミラノ・コルティナパラリンピック出場にあたり、たくさんの応援をありがとうございました。
今回で6回目となるパラリンピックでした。前回大会は最終予選で負けてしまい北京パラリンピック出場が叶わず、自分は一度引退をしましたが、監督に戻って来いと言われ 覚悟を決め現役復帰しました。しかし、復帰して間もなく、合宿中に大胸筋断裂という選手生命を考える大きな怪我をしてしまい、それから2年間はリハビリとトレーニング、気持ちを繋げるメンタルとの戦いの日々でした。怪我からの復帰とミラノパラリンピック出場をかける最終予選にはなんとか間に合う事が出来てとても嬉しかったです。
最終予選では、一位通過でミラノパラリンピックの切符を取る事もでき、自分を信じてやって来た事が叶う瞬間でした。ここまで現役で活動して来られたのもたくさんの方のサポートのおかげです。
これからも、パラアイスホッケーのファンとして、応援をお願いします。最後に温かい応援をありがとうございました。


塩谷 吉寛 選手(パラアイスホッケー)

ミラノ・コルティナパラリンピック出場にあたり、沢山の温かいご声援ありがとうございました。
2大会ぶり2度目の出場でしたが、今回の結果を真摯に受入れ、4年後にはまた舞台に戻ってこられる様に頑張ります!
スポーツを通して、長野県に恩返しが出来るように引続き挑戦し続けていきたいと思います。ありがとうございました。


熊谷 昌治 選手(パラアイスホッケー)

ミラノ・コルティナパラリンピック出場にあたり、県関係者の皆様をはじめ地元の方々には温かいご声援をいただき本当にありがとうございました。
今大会に出場するまでには厳しい予選ラウンドを戦い抜き、チームで勝ち取った切符でした 。結果は厳しいものとなりましたが、若手選手も活躍し今後につながる大会だったと思います。
つらい気持ちで帰国しましたが、地元の方々や小中学生にパブリックビューイングやメディアを通して試合を見てもらうことができ、「パラリンピックの感動をありがとう」という声をかけていただき、私にとって何よりの財産になったと思います。
日本代表キャプテンとして世界最高峰の舞台で戦えたことは本当に幸せでした。ありがとうございました 。


新津 和良 選手(パラアイスホッケー)

応援いただいた皆様、ならびに日頃より支えてくださっている家族・関係者の皆様に、厚く御礼申し上げます。
パラリンピックという最高峰の舞台に立ち、多くの方々にパラアイスホッケーを知っていただけたことを光栄に感じております。
個人としては、初戦のチェコ戦で大会のオープニングゴールを挙げることができました。あの時の感触は今も右手に鮮明に残っており、自身のキャリアにおいて大きな財産となりました。
最終順位は8位と悔しい結果となりましたが、現時点での全力は出し切ることができました。
この経験を次なる糧とし、4年後のフランス大会でのメダル獲得に向け、一層の努力を重ねてまいる所存です。引き続きのご支援、何卒よろしくお願い申し上げます。


小池 岳太 選手(アルペンスキー)

パラリンピック振り返り 

ジャンプ箇所通過の様子。最大40m級のジャンプがありました

6大会目となりましたミラノ・コルティナ2026冬季パラリンピックは、また一段と特別な大会となりました。
それは、イタリアで始まりイタリアで終えられことがまず一つです。1回目のパラリンピックが2006トリノ(イタリア)大会でした。そして、年齢的に頂点を目指せるのは今回のミラノ・コルティナ大会が最後と考えており、若手の台頭が著しく出場でさえも非常に厳しいと予想している中、奇跡的に出場を決められたためです。
二つ目は、昨年12月に恩師の故 富井正一コーチが急逝されたのですが、その知らせを受けたワールドカップ・St Moritz戦(スイス)のGSレースで不思議と自力以上の力が働き、その後の世界ランキングが上がり、パラリンピック選考基準を突破したことです。その試合以外、1月末までの選考レース全て基準を突破できていない成績だったため、恩師が強烈に背中を押してくれたと痛感した奇跡があったことが二つ目の理由です。
三つ目は、コロナ禍明けの大会であったことと、歴史ある欧州の舞台にパラリンピックが戻ったことです。世界遺産のドロミテ山脈に囲まれたcortinaのスキー場は、健常者のワールドカップ会場として名だたる難コースとして有名でしたし、日本のアルペンスキー史上唯一のメダル獲得が前回1956年の五輪で同会場での獲得でした。そのような地で行われる大会には非常に胸躍る状況でした。コロナ禍明けとしての今大会は観客もいっぱいであり、そしてみなさん非常に楽しんでいてくれる様子が見て取れ、観客席のどよめき具合はスタートエリアでも地響きのように聞こえていたほどでした。
このようなご縁のあった今大会に出場できたことは心から幸せと、身の引き締まる思いが大会中ずっとありました。

ゴールから見た大会コース。雄大なドロミテ山脈は息を呑む景色でした

成績としては、複合種目の10位が最高位となり、目標のメダルはおろか入賞にも届かない結果でしたことは、無念さと、応援くださった皆様の期待に応えられなかった悔しさがあります。一方で、滑降種目は12箇所のジャンプがある過去6大会随一の難コースであったことに対して、恐怖を克服して必死にメダルを目指して攻めに攻め抜いた試合展開だったことは、これまでの経験を総動員して攻略に挑戦できた結果のため誇りに思っています。同時に、男子スタンディングカテゴリーの第一シード(トップ15人)の中で最年長である中、若手に肩を並べて戦えたことも誇りに思います。これは、長年私を育ててきてくださったコーチの皆様、トレーナーの皆様、体のケアをみてくださった治療家の皆様、そして私に関わってくださる応援くださった全ての皆様のおかげだと心から思っています。怪我や病気に強い丈夫な体に産んでくれた両親にも心から感謝しています。メダルを一つも取れない代表活動でしたが、長く応援いただきましたこと、誠に有難うございました。

滑降種目スタート前の様子
ゴールラインを切る時の様子

後進へのメッセージ 

一人一人、誰にでも大きな可能性があり、チャンスを掴むかどうかは自分の心がけ次第、行動次第だとお伝えしたいです。若い選手には、ぜひ大きな志を持って世界に挑戦していっていただきたいと思います。その中でアルペンスキーに取り組んでくれたら嬉しいですが、長野県というウィンタースポーツが身近に行える環境を生かして、どのスポーツでも良いので世界で活躍していくことを目指して挑戦していってほしいです。
やはり、夢に向かって挑戦することは、並大抵の努力では続きません。うまくいかないことが多く、挫折が何度もあると思います。でも、簡単には諦めず、工夫に工夫を重ねて粘って挑戦し続けてほしいと思います。挫折を乗り越えた先には、必ず幸せな瞬間が待っていると私は思います。そして夢を目指す活動は、やはり一人では最短距離で目指すことができません。ぜひ、人に応援される選手として活躍していってほしいですし、自分の限界を高め続けてくれる素晴らしい指導者と出会ってほしいです。
そのために、日々の小さな努力の積み重ねをまずは頑張っていってほしいです。例えば挨拶をすること、お礼を伝えること、ミスがあったら素直に否を認めて改めていくこと。ノートに成長記録、失敗の記録を取ること。こうした一つ一つの小さな取り組みの積み重ねが、やがては大きな成長の原動力になると思うからです。必ず見ていてくれる人がいて、周囲の皆さんが応援してくれるようになり、夢が近づく礎になると思います。そして挫折した時、困った時に必ず助けてくださる方が現れるのだと思います。ぜひ自分自身の可能性を信じて、世界に向けて挑戦していってほしいです。

今後の活動について 

競技活動は世界の頂点を目指す戦いからは退き、今後は若手選手の練習パートナーとしてサポートすることや、競技の選手発掘・普及に貢献していきたいと思います。
その一環として、講演活動含めて、この4年間単独で海外遠征してきた経験から学んだことも積極的に伝え、生かしていきたいと考えています。というのも、トップチームを外れた時、私自身は練習場や宿泊場所の確保、レンタカーの運転、競技用具のメンテナンスなど、自分一人でこなして大会に出場してきましたが、そこで労力を削がれて試合前から疲弊してしまうという悪い側面がありました。一方で、海外チームに練習場所を求めたり、日本のトップチームからも可能な限りのサポートをいただいたりと交渉を重ねた結果、多くの方に助けていただきパラリンピックに繋がった経緯がありました。若手選手には苦難に陥った時に少しでも近道を通って成長してほしいため、そういった後押しをしていきたいと考えています。
おかげさまで私自身は長い競技生活を送ることができましたが、それは周りの人々の励まし、ご支援、そして導きがあったからです。人の可能性は努力次第で大きく伸ばし続けられることを身をもって学んできました。この経験を、一般社会においても講演活動や発信活動、パラスポーツ体験会実施などにより社会に貢献していきたいです。

現地応援に駆けつけてくれた弟と

「障がい者スポーツ協会だより63号」(2026.5)に掲載しています。

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